冬の蛍

「別にね、不満があるわけじゃないのよ、あなたは才能があるし、それがあなたにとって一番大事なことだってことも知ってるつもり。ただね、ちょっと疲れちゃったの。それだけ。ね、だから、しばらくの間会わないでおきましょ」

半ば一方的にそう宣言されて、部屋を出ていく博子を見送ったのがクリスマスの二ヶ月前のことだった。借りたばかりの2DKのこの部屋は、一人で暮らすには広すぎて、僕はたちまち生活を持て余すことになった。

博子の言い分はとてもよく分かる。ろくに働きもせず、酒を飲んで金にもだらしない。
一昔前ならいざ知らず、今時分こんな典型的なろくでなしも珍しい、と自分でも思う。

クリスマス前には、バイトの予定を沢山詰め込んだ。単純に金がなかったし、博子がいなくなった孤独感を少しでも紛らわしたかったからだ。
クリスマス前の五日間、僕はパン工場の夜勤でクリスマスケーキのスポンジを巨大なオーブンで焼き、箱詰めし、出荷ルートに照らし合わせながら配送した。それは味気なく、誰とも会話のない労働だったが、それなりに心地の良いものでもあった。
それに加えて、いつもと同じように、引っ越し屋のバイトにも励んだ。何を好き好んでこんなクリスマス前の時期に引っ越しなんかするのかは分からないけれど、引っ越し屋は繁盛していた。多い時には一日に三件引っ越しの現場を掛け持ちした。

そういうわけで、肉体的な疲労は徐々に溜まっていく一方だったけど、それよりも、家に帰り、誰もいないガランとした部屋のパソコンのモニタの前に座り、デスクトップの上の書きかけの小説のファイルが並んでいる光景を眼にする度に、言い様のない不安が胸中を駆け巡った。
僕は、いつまでここにいるつもりなのだろうか、と。

僕は、小説家になりたいと思っている。まだ、一本も書き上げたことはない。すべて、未完のまま中途で放ったらかしになったままである。
気がつけば、もう二十七歳で、三十に手が届きそうになっている。

ただ漠然と、「美しい物語」というものに憧れているのかもしれない。
完成することのないこの小説たちは、まるで僕の人生そのもののようにも見えた。
何者にもなれず、誰に見られることもない。

部屋の片隅の、古くなった電気ストーブのスイッチを入れる。ブウウン、と夏の終わりに虫が飛ぶような低い音がして、電熱線が赤くなっていく。手をかざして、擦り合わせてそれを暖める。美しい物語、と小さく声に出して呟いてみる。理由もなく、少し、苦笑。澱み、微睡むような日々に、心から溜め息。

博子から電話があったのは、クリスマスも過ぎた十二月の二十八日だった。
二ヶ月以上会っていなかったというのに、博子は別段気不味くなるような雰囲気でもなく、明るい声で僕に話した。

「ねぇ、明日、久し振りに会わない?」
「いいけど、もう会わないのかと思ってたよ」
「どうして? あたし、もう二度と会わないなんて言った?」
「いや、言ってないけど」
「じゃあそんなふうに考えないでよ。そういうの、あなたの悪いところよ?」
「そうかな?」
「そうよ」
「どこで会う?」
「迎えに行くわ。九時頃ね」
「朝の?」
「馬鹿ねぇ、夜に決まってるでしょう」
 
久し振りに会った博子は、少し痩せたようにも見えた。それを隠すように、厚手のマフラーを巻いて、ダウン素材のジャケットを着ている。

「クリスマスはどうしてたの?」

博子の運転する車の助手席に乗り込みながら、僕はそう訊いてみた。

「別に。何もしてないわよ。いつもと同じ。会社に行って、仕事して、外でご飯食べて家に帰って寝たの」
「ずっと、実家にいるの?」
「そうよ。他に行くところなんてないでしょう?」

博子と会ったら、言うべき言葉が沢山あったはずなのに、何一つとして出てこない。いつの間にか僕は口を噤んで窓の外の景色を眺めているだけになった。
車は浜松の駅前を通り過ぎて、海の方へ向かっている。

「どこへ行くの?」

僕は訊ねる。海、と博子は前を向いたまま答える。
夜の国道をしばらく走り、博子は駐車場に車を停めた。年末で、他に停まっている車は疎らで、車の外は冷たい風が吹いていて、夜空には星が瞬いていた。

「降りて。少し、歩こう」

博子に促され、僕は車を降りる。
両側に林が広がっている入口を通って、僕たちは海へと続く夜の砂丘を歩いた。真っ暗で、眼が慣れなければほとんど何も見えなかった。
博子は僕の手を握って、僕もその手を握り返した。博子の手は温かく、僕はその温もりを懐かしく思った。
僕たちは手を繋いで、真っ暗な砂地に脚を取られながらゆっくりと歩いた。

「あたしに、会いたかった?」

歩きながら、博子が言う。

「うん、会いたかったよ。でも電話できなかった。俺はひとつも、自信を持って博子に見せられるものがなかったから。だから、もうこのまま会わないほうがいいのかもしれないとか思ってたんだ」
「小説は? 書いてる?」
「うん、書いてるよ。でも相変わらずさ。ひとつも、完成しない」
「ふうん、今はどんなのを書いてるの?」
「幼稚園の保育士さんが、園児の一人と神社でキゥイフルーツを食べる話」
「それだけ?」
「あとは、深夜の美術館で、学芸員がミケランジェロの彫刻を観ながら自慰行為に耽る話とか」

僕がそういうと博子は可笑しそうに笑った。二人の、足音が真っ暗い世界に響いていく。ザクザクザク。それと、遠くから聞こえる波の音。

「でも、完成してないのね?」
「うん、完成してないんだ」
「いつになったら完成するの?」
「いつだろう。いつもね、書き始めは楽しいんだ。こんな話にしようとか、こんなラストシーンにして、こんな台詞を入れようとか。いろいろ考えるんだ。で、これは凄いぞ、面白い! 美しくて感動的で、完璧な物語だ、とか思うんだ。でも、書いているといつも途中で粗が見えてくる。それを直せばいいのかもしれないけれど、ひとつ粗を発見したら、直したところで根本的にそれほど良い物語ではないかもしれないって思っちゃうんだ。一度そう思い始めると、もうその物語に興味を失ってしまう。形にしよう、という気になれなくなる。書くだけ無駄って気になってくる。だから、いつまでたっても完成しない。文句の付けようのない、完璧な物語を思いつくまでは」

博子は黙る。僕も、黙る。俯いて、黙々と歩き続ける。やがて、波打ち際まで辿り着く。暗い海が、目の前に広がっている。僕たちは立ち止まり、その暗さを眺める。辺りには誰もいない。誰かがいたとしても、この暗さでは気付かないだろう。

「あたしが聞きたかったのはね、そういうことじゃないの」
「だろうね」
「じゃあなんでちゃんと答えてくれないの?」
「怖いンだ」
「何がよ?」
「お前を、幸せにできるか分からないから」
「馬鹿ね、あたしが、分かってるような幸せを望んでると思うの?」

僕は黙る。星が降ってくるような音が聞こえた気がした。

「あなたが書きたいものを書いて、それがいつか完成したら、それをあたしに読ませてよ。美しい物語を書くんでしょう? 書けるんでしょう? それまで、ううん、別にずっと貧乏でもなんでもいいの。一緒にいられれば」
「ああ、書くよ。俺は、きっと美しい物語を書く。俺にしか、書けないような」
「あたし、あなたに会えなくて淋しかったよ」
「ゴメンな、意気地がなくて」
「すぐに、迎えに来てくれると思ってた」
「ゴメン」
「あたしが淋しくないと思ってた?」
「思ってないよ。何て言おうか、ずっと考えてたんだ」

結婚しよう、そう言うつもりだった。言いかけたところで、不意に博子があ、螢! と叫んだ。

「ほら、見て見て。螢だよ? 信じられない。こんなところにいるなんて」
「螢? こんな時期に? 見間違いだよ。こんなところにいるわけがない」
「だって、あ、ほら、あそこ。飛んでる」

暗闇の中を、博子が指差す。眼を凝らすと、確かに淡い光が中空を浮遊している。それはゆっくりと移動していく。蛍のようにも見える。

「ホントだ。螢だ。こんな季節に」
「ね、行ってみよう」

博子は僕の手を取り、走り出す。夜の中を、僕も一緒になって螢の方向に向かって走り出した。靴先が粒子の細かい砂に埋まって、走りにくい。
それでも、何も見えない暗闇の中を僕たちは弱々しい螢の光だけを頼りに走った。足元は見えないが、不思議と恐怖はない。あの螢が、僕たちをどこか、僕たちが待ち望んでいるどこかへ、導いてくれているような気がした。
僕は立ち止まり、博子の手を強く握る。
あの螢は、幻かもしれない。
ただの、夢かもしれない。
だけど、夢でもいい。
二人で、それを見られるのならば。

僕は博子を抱き寄せて、その一言を口にする。博子は、僕の胸元で小さく頷いた。

美しい物語、とは、きっとこの螢の光のようなものなのだ。
広大な闇の中で、微かに光る星屑のようなもの。
時には誰かを導き、癒し、慈しむようなもの。
暗い、凍えた海の上で、数多の星が瞬いた。

「次に書く話を思いついたよ」

僕は、博子の耳元で囁いた。

「どんな話?」
「男と、女が幸せになる話なんだけど」

(終わり)

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