これと言って、何かそれらしい理由があったわけでもない。
なんとなく、生家に帰らないまま半年ほどが過ぎていた。
20世紀も終わりが近づいていた、1998年のことである。
おそらくは、まだこの国が多少の寛容さを残していた、最後の時代であろう。
僕は20歳で、世間的には大学生という身分に収まっていた。
大学のクラブハウス棟にある、演劇部の部室がその頃の僕の寝ぐらだった。
部室には、演劇の舞台に使うための平台が敷き詰められ、その上に絨毯が敷かれており、それなりに居心地は悪くなかった。
誰が持ち込んだのか、雀卓があって、日課のように先輩や後輩が入れ替わり立ち替わりやってきては卓を囲む。
寝袋に入り込んで床に寝転がっていると、朝夕構わず誰かがやってきて、「一丁打とうや」と僕を揺り起こす。
ああいいぜ、と卓の前に座ると、あとは打って、勝つだけだ。
大学生のレートだから、大して稼ぎになるわけでもない。
それでも、一晩打てば大抵2〜3万くらいの浮きになった。
そんな調子だから、大学の授業にもほとんど出ず、麻雀の他にやることと言えば女の家で風呂に入るか、図書館で本を読んでいるか、芝居の脚本でも書いているかという有様だった。
いつの頃からか、そんな僕のことが噂になったらしい。
誰かのバイト先の同僚だの、腕自慢の教授だの、どこかの雀荘のメンバーだのといった面々が、僕の寝起きする巣にやってくるようになった。
はじめは、僕にしこたま負けた誰かが連れて来たのだと思うが、一ヶ月もすれば、勝手に訪ねてくるようになる。
しばらくは僕も面白がって相手をしていたが、毎晩のようにやってくる彼らの相手をするのがだんだん億劫になり、どこか別の寝床—–友人の家や、女の部屋などに転がり込むことが多くなった。
●
あれはたしか、蒸し暑い夏の夜だった。風呂にでも入ろうと思って、近隣の友人知人に連絡してみても誰も捕まらない。
仕方なしに演劇部の部室で、ボロボロのクーラーの風に当たりながら、転がっていた雑誌をパラパラ捲っているとガラ、と入り口の戸が開いた。
「お、いやがったな。電気点いてたからな。いるんじゃねぇかと思ったんだ。さ、やるぞ」
そう言いながらズケズケと上がり込んで来たのは、ダンス部だかスキー部だかの部長の高橋という男だった。
ご丁寧に、同じ学部の後輩である青ケンも一緒だ。
「やるったって、三人かよ? 三麻じゃ相手にならん、ヤメとけよ。どうしてもおれに金をくれたいってんなら、イイけどさ」と僕。
「もう一人くらい、誰か呼べば来るだろ? 三人連れじゃ、さすがのメメちゃんもビビっちまうと思って気を利かせてやったんだわ」
気の早い高橋が、雀牌をザラッと卓に広げ、点棒を揃えながら言う。
まぁ、たしかに高橋の言う通りではある。その頃には、どうにか僕を負かそうと、コンビを組んで挑んで来る挑戦者もちらほらいた。
三人がかりだろうと負ける気はしないが、面倒なのは御免だ。
その場で、シヴァに電話した。隣町で車屋を経営している男で、どれほど負けても負け金は必ず即金で払うことから即金のシヴァという異名で呼ばれていた。
金回りの悪い大学生たちにとっては、ありがたい存在である。
とは言え、決してマズい打ち手というわけではない。
押し引きのタイミングは心得ているし、少なくともあからさまな暴牌を打つようなことはない。ただ、純粋に勝負弱いだけである。
しばらく待っていると、20分ほどでシヴァがやってきた。
「よう、シヴァちゃん。こっち、初めてだっけ? 青ケンの先輩の高橋。高橋、こっち、シヴァちゃん。即金のシヴァと言やぁこいつのことだぜ?」
「おい、その紹介やめーや」
「いやいや、どんだけ負けてもいつも即金で支払うなんてのは、なかなかできることじゃない。スゲェことだ。お前らも、見習えよな」
僕がそう言うと、高橋はチラッと財布を見せた。万札が、三枚くらいはあるように見えた。
打ち始めてすぐに、僕は自分が本調子であることを知った。
結局、朝までかからず、わずか半荘4回目で高橋がパンクした。
持ち金が尽きた彼は、どこかに電話をかけ、いいから来いよ、いくらかあっただろ、というようなことをバツが悪そうに口にしていた。
「メメちゃん。今、金は持ってこさせる。あと半荘、倍プッシュでサシウマ行こうや」
「ヤダね。それで勝っても、取り立てるほうが面倒くせぇし」
「んなこと言うなって。もし負けても3万くらい、すぐ払えるわ」
な、だから頼む、と言われて、泣きのラス半、倍プッシュのサシウマを受けた。まぁ実際は、それまでサシウマ5000円でやっていたのがその半荘は30000円なのだから、倍プッシュどころではないのだが。
●
扉が開いて、入って来たのは日本画科の女の子だった。
まだ僕が真面目に講義に出ていた頃、一般教養の授業で何度か見かけたことがある娘だ。
色白で、不安になるくらい痩せていて、くるくるとよく動く表情豊かな目をしている。
ほとんど部屋着のままのような格好で、膝丈までのハーフパンツから白いふくらはぎが息を潜めるように伸びていた。
「お、悪りーな博子、サンキュー」
高橋が、博子と呼ばれた彼女から封筒を受け取り、中をチラッと改める。
「こんだけ?」
「持って来てあげただけ、マシでしょ」
博子は不機嫌そうに、高橋の後ろに座った。
「何? 高橋くんの彼女?」
即金のシヴァが、高橋に言う。
「ま、そんなとこ」
「ふぅん。こんな夜中に呼び出されて、災難やね」
「いいのいいの。おい博子。オレの後ろで見ててもしょーがねーだろ。こいつ、油絵科のメメ。知ってたっけ?」
「何回か、授業一緒だったよね。フランス語、とってなかったっけ?」
博子の目が、やけに真剣味を帯びていた。
「そうだったかもね」
「ね、麻雀、教えてよ。マーくんったら、負けてばっかなんだもん」
「おい、自分の彼氏にそんな言い方はねぇだろう」
高橋が笑いながら言う。こんなヤツは、負けて当然だ。勝負の場に、自分の女を連れて来て、ヘラヘラしてるようなヤツは。
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高橋が、そんなヤツではないかもしれない、と気付いたのは東3局だった。
僕の後ろに座っていた博子が、髪をかきあげる仕草をした。
その動作に、高橋の視線が注がれていた。
通してやがるのか、と半ば感心した。
同時に、なんて不遇な女なんだろう、とも思った。
こんなろくでもない男の小博打に付き合わされて、壁役までやらされている博子が、やけにいじらしく思えた。
しかし、本調子の時の僕は、通されようがおかまいなしだった。
赤2枚使いの14725筒で、オープンリーチ。
「ほらよ、サービスだ。余計な手間、省いてやるよ」
そう言って高橋をチラッと見て、リーチ棒を放る。
そして次巡、当然のように一発ツモ。
裏が2丁乗ったが、一本足りずに倍満止まり。
親かぶりした高橋が、口をへの字に曲げている。
結局、その倍満のリードを守りきり、僕がトップ。
高橋は、博子が持ってきた追加の金もすべて吐き出し、3万ほどのマイナスになった。
僕がプラス5万、シヴァと青ケンがそれぞれ1万弱の浮き。高橋はその晩、一人で7万近いマイナスになったはずだ。
学生にしては、大きい負け額だが、負けるのが嫌なら打たなければ良い。
博打の負けに関しては、僕は一切容赦することはなかった。
「で、3万ほど足りねぇが、いつ払ってくれるんだ?」
「来月まで待ってくれ。なんとかするから」
「阿保ぬかせ。博打の負けは待って翌日までだろうが。来月なんて待てるわけねぇだろ」
「いいじゃねぇか、待ってくれたってよ。払わないとは言ってねぇんだから」「自分でケツも拭けねぇなら、挑んでくんじゃねぇよ。別に現金じゃなくたってイイぜ。そういやお前、イイ自転車持ってただろ」
「ばか、あれはダメだ。買ったばっかだし、12万はするんだぞ」
「現金がねぇならそういうもんで精算するしかねぇだろう。おれだって、別にチャリなんて欲しかねぇや」
そんなキナ臭いやりとりがあって、今週中になんとかする、と言い残して高橋たちは帰って行った。
部室にひとり残されて、散らばったままの牌をじゃらりとかき混ぜる。
寝転がってしばらく煙草を吸っていると、入り口の扉がガラリと開いた。
見ると、さっき帰ったはずの博子が、所在無げに立っている。
「なんだよ、忘れもんか?」
そんな間抜けなセリフを吐いた僕のところに、博子はまっすぐに歩いてきた。
「マーくんが、メメくんのところに行ってこいって。今は一人だろうからって…」
「おい、マジか? やめろよそういうのは。おれはそんなつもりはねぇよ」
まったく、ほとんど麻雀劇画の世界である。麻雀の負け分に、自分の女を差し出すとは。
「いいの。わざとだったから」
「わざと?」
「だって、結局そのお金用意するの、私だもん。だったら、同じでしょ?」
「とにかく、やめろよこういうのは。で、お節介ついでに言うと、高橋とは別れた方がイイぜ」
「だめよ。別れられないの。私たち、もう遅いのよ」
「遅かねぇだろう、別に」
言い終わらないうちに、唇を塞がれた。
「私じゃ、いや?」
据え膳食わぬはなんとやらだが、僕は僕の力で勝ち取ったものしか手にしたくはなかった。
「少なくとも、こういうのはな。たかが麻雀の勝ち負けだ。そこにこういうのは、絡ませたくねぇよ」
「絡んでなかったら、いいの?」
いつの間にか、博子は薄手のパーカーを脱いで、キャミソールだけになっていた。きっと、惨めな気分になるだろうな、という予感があった。
(続く)